第6話 私は不審者ではない [ロンドン]
バッゲージクレームで預けたスーツケース2個も無事に手にすることができた私たちは、がらがらとスーツケースを引きずりながら最後の難関、税関検査所へ向かった。税関検査といっても何もスーツケースを開けさせられて、不審物を発見せんがためにきれいに収まった衣類などをぐちゃぐちゃにし、何も見つからなければ「サンキュー」のひとことだけで、さらに早く片付けて次の人のためにここのスペースを開けろみたいな視線を担当官から浴びせられることはない。不審な人物だけをピックアップして通路脇、もしくは別室で検査を受けるというシステムである。こちらは善良な夫婦もの。銀婚式を記念して遠路はるばる英国にきて、何日間で莫大とはいえないまでも、そこそこのポンドを消費しようといている旅行者なのだから後ろめたいところは何もない。しかし、なぜか「おれの目は騙せないぞ」というような鋭い目つきをする担当官の前を素通りするのは怖い。目をそらすような不自然な動きになってしまうのだ。
実際、かつてボストンの空港で他の乗客は何ごともなく通過したのに私だけ呼び止められてスーツケースを開けさせられ、隅々まで執拗なチェックを受けた経験もある。訪問先で見せるための会社案内のおさまったビデオテープを発見され、中には何が入っているのか内容を説明しろとしつこく詰問されたのだ。同行していた上司は、なかなかでてこない私の身を按じ、空港職員に捜索を依頼する寸前だったとか。台北市内では訪問先に向かってバスターミナルを歩いていたとき、警察官に呼び止められパスポートと帰りの航空券の提示を求められたこともある。
そんな過去の悪夢が脳裏をよぎる中、気にしない気にしないというような、わざとらしい平静さをよそおって完全に自由な身になるべく出口へ急ぐのだった。さすが動物を愛する英国である。威圧的な税関職員につながれたシェパードまで私に不審な点がないか観察している。ここで突然走り出したら、10秒後には私はあのシェパードの刃にかかり職員に取り押さえられるに違いない。そしてシェパードは職員から角砂糖をもらい、尻尾を振って定位置に戻ることになるだろう。プリムローズヒルからロンドンの景色を眺めることなく強制送還されることは心外である。シェパード君には申し訳ないが、私は左右の足をスムースに交互に出しながら彼らの前から消えていくことにした。
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